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座Interview vol.8 「人間の脳を巡る過去と未来。長い時間軸の中で「座る」をとらえ直す。」認知科学者 苫米地 英人

認知科学の専門家として、脳科学、心理学、人工知能、能力開発など多分野での
活動・著作がある苫米地英人さん。その広い知見の中でとらえ直す「座る」とは?
人類進化の過去と未来を一気に飛び越えるような、スケールの大きな視点で迫っていただきました。

Profile

苫米地 英人Hideto Tomabechi

1959年、東京生まれ。認知科学者(計算言語学・認知心理学・機能脳科学・離散数理科学・分析哲学)。カーネギーメロン大学博士(Ph.D.)、同Cylab兼任フェロー、株式会社ドクター苫米地ワークス代表、コグニティブリサーチラボ株式会社CEO、角川春樹事務所顧問、中国南開大学客座教授、全日本気功師会副会長、米国公益法人The Better World Foundation日本代表、米国教育機関TPIインターナショナル日本代表、天台宗ハワイ別院国際部長、「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団大十字騎士(ナイトグランドクロス)」

体の他の部分よりずば抜けて進化した人間の脳は
いつもエネルギー不足の状態に置かれている

認知科学者 苫米地 英人さん(その1)

まず「座る」の未来の話をしましょう。そこではイスはなくなります。詳しくは後で述べますが、重力のコントロールができるようになれば、イスだけでなく「座る」という姿勢そのものがいらなくなります。今ある「座る」というのは、人類が二足歩行に進化してからその未来に至る間の“過程”と考えるべきです。

これがどういうことなのかを理解するには、「座る」がなぜ生まれたのかを知る必要があります。それには私たちの脳が大きく関係しています。人類の脳は、ご存じのとおり他の生物よりずっと大きく進化してきました。より効率的な捕食活動、生殖活動を可能にするために、本能的な行動よりも、未来を予測して計画を立てるといった学習と推論を始めたのです。その結果、脳の活動量は飛躍的に増大し、とてつもなくエネルギーを消費する器官になってしまいました。

脳は、それだけで人体の残り全部よりもエネルギーを消費する器官です。一方、エネルギーを供給する側はどうかというと、栄養を摂取する消化器官は脳に比べれば大した進化をしていない。他の脊椎動物と基本的には一緒です。つまり人類は、脳だけがずば抜けて進化してしまったために、脳の活動をまかなうだけのエネルギー供給が慢性的に追い付いていない存在なのです。

脳を完全に休ませずに、消費エネルギーを
抑えつつ働かせる。「座る」はその妥協点だった

認知科学者 苫米地 英人さん(その2)

エネルギーの供給が不足しているなら消費を抑えなくてはなりませんが、これがなかなか難しいのです。人間はただ「立つ」という行為をするだけでも脳を相当使います。地球の重力に対してまっすぐ立った姿勢を維持するには、いくつもの関節の周りにある無数の筋肉をこまめに調整しなくてはなりません。要は「止まっていない」のです。「立つ」をキープするために、脳は重力加速度を計算して各筋肉に細かく指示を出している。それを膨大に繰り返している。これだけでかなりの情報処理量です。

「立つ」ために脳が消費しているエネルギーをセーブする方法として、まず考えられるのは「寝る」です。その典型が冬眠。しかし人類は、脳を使い続ける道を選んだ。横になると三半規管がまったく違う状態に置かれ、自律神経には休息の信号が出て、脳の活動を維持することができません。単に休ませる分には良いのですが、“省エネをしつつ働かせる”ためには「寝る」だと行き過ぎなのです。

こうしていわば“折衷案”として編み出されたのが「座る」です。「立つ」ための情報処理をある程度軽減しながら、頭部の状態は変えずに脳の活動を維持する姿勢として、当面人類が取り得るオプションは「座る」しかない。しかし、そこにはリスクもあります。たとえば、細胞は一定の重みがかかり続けると数十分で壊死(えし)が始まります。「立つ」ではそのリスクは足の裏だけですが、「座る」ではお尻と背中に広がります。そこで人間はじっと座っているときも、体重が1カ所にかかり続けないように、実はごく短い時間で細かく姿勢を動かしている。このときも脳は情報処理をしています。でも「立つ」の処理量よりは少なくて済む、という話なんですね。だから、脳を“省エネをしつつ働かせる”もっと効率的な方法があるなら、別に「座る」じゃなくてもいいのです。

将来、究極的には「座る」は必要なくなる
それまでの“過渡期”に何ができるのか

認知科学者 苫米地 英人さん。研究生の池田敏行と

研究生の池田敏行と

再び未来の話に戻ると、技術の進歩により三半規管の作用を制御できるようになれば、人間は寝ながらにして脳を活動させることができるし、脳に十分なエネルギーを直接送り込むことができるようになれば、ずっと立ったままでいいかもしれない。そして将来、究極的に向かうのは“重力の克服”でしょう。頭は真っ直ぐ立ったまま体が空中に浮いていれば、脳は姿勢制御にエネルギーを割く必要がなくなります。壊死のリスクもありません。そこにはもう「立つ」も「座る」もないのです。

ただし、今はそれまでの“過渡期”ですから、できるだけ「浮いている」に近い状態を再現するのが当面「座る」に求められる課題になります。体重を徹底的に分散して、体のどの部分も接触していない、一切体重の負荷がかかってない状態をつくることが、イスを作る側の目指すところです。

一方、イスに座る側には脳のエネルギー効率をもっと高めることが求められます。無駄に使っているところを止めるということです。脳をα波が支配的なリラックス状態に持っていき、意識が散漫になるのを抑えて余計な思考にエネルギーを費やさない。そして必要なところに集中して情報処理を継続する。一種の催眠状態です。催眠というと「術」のことだと思われがちですが、これは普段からみんなやっています。たとえば、ある程度習熟したドライバーの脳には運転時に催眠状態が見られます。運転中にふと我に返って「この何分間かよく覚えてない」という状態。これは居眠りではなく、運転という行為が無意識化されているだけで、その間も信号やカーブなどに対する適切な判断はちゃんと行っています。この方が安全運転をしているという調査もあります。運転に集中することで、その他の雑念をシャットアウトできているんですね。このように脳の省エネが上手にできるようになれば、私たちはもっと快適に“過渡期”を過ごすことができるでしょう。