学生時代に劇団を起ち上げて、いままでずっと劇作家、演出家としてやってきました。昔の小劇団は、観客を桟敷席に座らせて、それこそ隣の人と肩がぶつかりあうような環境で芝居を観せてきました。ところが、いまとなってはそうもいかないのです。障害を持った方もいるし、観客の年齢も考慮しなければいけません。
実は劇場の椅子というのは、非常に重要なものなのです。イタリアの演劇祭に参加したときのことなのですが、イタリア中の劇場から“その劇場の椅子”が一脚ずつ送られてきた。それを広場に並べるのです。椅子というものが劇場そのものを象徴する存在になっていて、それが集まることで演劇祭の歴史や威厳を表現しているのです。椅子という無機物が有機的な存在として機能している。ただ座る道具ではなく、シンボリックなものなんですね。
舞台演出の上でも、座るというのは、非常に重要なポイントになります。いつも私は、登場人物の座る位置は、台本を書く段階で決めています。その位置によってそれぞれの関係、発する言葉が変わってくる。人という存在は、環境で話す言葉が強いられるのです。だから、座る位置や角度、高さといった位置によって、人間関係や言葉が決まってくる。
いま、大阪大学でロボット演劇というものを手懸けています。人間の役者と一緒に、あるいはロボットだけで芝居をさせるというものなのですが、ここでは2種類のロボットを使っています。人間に酷似したアンドロイドは、立って動くことができない。座ったままなのです。これでは通常、芝居はできないのですが、「詩を読み続ける」という役を割りあてました。もう一体のロボットは動きまわれますが、立ったり座ったりという動作はできない。演出において、人の位置、高さと距離、角度、そして動線というものは非常に重要です。それが制限されたロボットで演劇を作ることで、改めて、座るということがいかに人間関係に影響を及ぼすかということを再確認できました。
サン・デグジュペリの言葉に「愛、それはただ互いに見つめ合うことではなく、ふたりが同じ方向を見つめることである」というものがあります。この言葉を見ても、座り方や2人の位置関係が想像できますよね。
人間が生きる空間には、パブリックな空間とプライベートな空間、そしてその中間になるセミパブリックな空間があります。パブリックな空間に関しては、居心地が良い、人が自然に動きまわれる、コミュニケーションが取りやすい空間といった研究はある程度進んでいます。人と人の衝突を回避する工夫をすれば良いのです。プライベートな空間は、変化が起きない。他者が触れ合うことが少なく、限られた人しかいないので変化が起きにくい。一方、セミパブリックな空間は難しい。例えば病院のロビーや学校の職員室といった空間です。閉じているけれど、社会的な空間があります。ここはあまり研究が進んでいません。ただ、対話しやすいような椅子の配置、他者とコミュニケーションが取りやすい空間を作ることはできます。病院の診察室などもセミパブリックな空間ですが、医者にきちんと相談しやすい椅子やその配置はあるはずです。これまで、それがないがしろにされていた傾向はあるかもしれません。
人間はそれぞれ、生い立ちもライフスタイルも違います。それぞれで心地良い椅子は違う。自動車のシートも、子どものころから自動車に乗り慣れている人とそうでない人では、感じ方が全く違うのです。また一緒に乗る人によっても変わってくるでしょう。仲が良い家族、恋人同士で乗るときと、仕事でお付きあいがある人と乗るときでは車内の空間が異なってくる。前者はプライベートな空間で、後者はセミパブリックな空間なんです。
研究者というのは、分析して平均値を求めていく傾向があるのですが、コミュニケーションの形は一つじゃない。平均値というのはあまり意味がないのです。演劇は芸術の一つですが、芸術は「何かのためにするもの」ではありません。しかし、研究開発は目的がある。アートに目的はなくても、デザインには目的がある。いま大阪大学でロボット工学を研究している人たちと一緒に仕事をしていますが、科学者の関心は、「どうして平田オリザが演出する芝居はリアルなのだろう?」という点にあります。科学にアートの発想が採りいれられ、また逆にアートにも科学の発想が採りいれられています。例えば、動くことができないアンドロイドをなんとか舞台の上で移動させたいと思ったとき、科学者は「現状ではできない」と言います。しかし、「隣の研究室にある電動車椅子を使えばできる」と私は考える。電動車椅子の開発者は、「人を乗せて動くもの」を作っているので、アンドロイドを乗せるという発想がないのです。こういった科学にアートの発想を、アートに科学の発想を採りいれることは重要だと思います。“座る”ということを考えるときも、科学的な視点とアーティスティックな視点の双方が必要だと思います。